【鹿角抄(コラム)】 思い出の玄武 ついに対面 次の大フィーバーには携われない…
奈良県教委を担当していた昭和58年11月10日、奈良県庁北側の会社(支局)に戻ると、社内は少し緊張した空気に包まれていた。明日香村で11年ぶりに極彩色壁画が発見されたというのだ。社会部出身のデスクが担当記者と電話でがんがんやりとりし、普段は仕事にはあまり口をはさまなかった温厚な支局長も加わって、どう報道するか、対応を協議していた。
夜になり、現場で取材した先輩の担当記者がわざわざ支局に上がってきて、大発見の原稿を執筆した。しかし、発見された肝心の極彩色壁画の写真はなかった。
このときの調査は当時、最先端技術のファイバースコープを使った調査だった。古墳石室内に盗掘穴からファイバースコープを挿入、北壁に描かれた極彩色壁画を撮影するという画期的な方法だった。調査には大学教授や村民らが参加していたが、放送局も加わっていたので当初、写真は提供されなかった。
「写真がないのに載せるのか」「他紙もいくのか」など侃々諤々(かんかんがくがく)の議論のあと、結局、写真なしで発見の第一報を載せることが決まり、翌11日の朝刊1面には「亀虎(キトラ)古墳で極彩色壁画・玄武発見」の大見出しがおどった。
その日の夕刊も玄武の記事で埋まり、私も、今は国営飛鳥歴史公園になっているキトラ古墳周辺を走り回り、地元の人たちの興奮を伝える記事を送った。忘れられない入社2年目の玄武発見ドキュメントである。
その玄武は今月19日まで、明日香村の四神の館で公開されている。写真は何度も見ていたが、本物を見たのは一般公開に先立つ報道公開(1月19日)が初めてだった。「これが本物か」とちょっと感動し、「玄武の下の獣頭人身の壁画が完璧だったらもっとすごいのに」と思った。
高松塚、キトラにとどまらず明日香村には、まだ壁画古墳が眠っている可能性があり、第3の極彩色壁画が発見されれば、大フィーバーになることは間違いない。だが、そうした古墳が運良く発掘調査されるのは、数十年に一度のこと。今年が定年の私が、その発見報道に携わることは、残念ながらなさそうだ。 (野崎貴宮)