奈良伊賀地域で産経新聞の購読試読・求人案内。

産経新聞 奈良県伊賀地区専売会産経新聞 奈良県伊賀地区専売会

産経新聞グループ各紙のご購読はこちら 0742-24-2214

専売会について専売会について各専売店の紹介各専売店の紹介地域貢献地域貢献求人内容求人内容購読・試読サービス購読・試読サービス

sanbai-02.jpg

よみがえる弔いの情景 菅原遺跡、大仏を臨む〝行基供養堂〟


弱者を救済しながら、架橋、造池などの土木事業を展開し、晩年は大仏造立に尽くした行基(668~749年)。菅原遺跡(奈良市疋田町)で発見され、5月に発表された奈良時代の円形建物跡は、類例のない遺構で、行基の供養堂だった可能性が高いとされる。行基の死を悼む民衆が、大仏の完成が近づいていた東大寺や平城京を一望する丘の上に集まり、供養堂を建てた。民衆から菩薩と慕われた行基にふさわしい、弔いの情景が想像される。(川西健士郎)
■知識活動の集大成
 行基は現在の堺市で誕生し、飛鳥寺(明日香村)で遣唐使僧の道昭の薫陶を受け、土木や福祉事業に取り組みながら布教活動を展開する。その実態について、堺市文化財課学芸員の近藤康司さんは「食料や金銭、あるいは労働力を仏道に寄進し、結縁を結ぶ『知識』と呼ばれる集団を行基は率いていた」と指摘する。
 『続日本紀』によると、717年に朝廷は行基を「小僧」と罵り、「聖道と称し、百姓を妖惑す」と指弾する。知識集団は遠方からも集まって膨れ上がり、国家に危険視された行基は弾圧され、大和から和泉、摂津へと活動の場を移したという。
 しかし、大地震や天然痘の大流行などに直面した聖武天皇が、国難を乗り越えるために大仏建立を発願(743年)した際、頼りとされたのは行基だった。
 近藤さんは「遷都など聖武天皇の事業に寄り添うように行基の足跡がある。行基にとって大仏建立は、知識活動の集大成といって過言ではない」と話す。
 ■大仏と縁深い菅原
 ちょうど1300年前の721年、行基は平城京内に菅原寺(喜光寺、奈良市菅原町)を建て、749年の春にこの地で没した。
 大仏は745年に制作が始まる。大仏の鋳型に銅を流し込む鋳造は747年の秋に始まって749年の冬に終了したとされ、聖武天皇の参詣と行基の死亡はその期間と重なる。
 菅原遺跡の位置は、行基が亡くなった菅原寺から西へ約1㌔の丘陵上だ。調査した元興寺文化財研究所によると、遺跡の標高は107㍍(平城宮跡は70㍍前後)で、真東に臨む東大寺大仏殿とほぼ同じ高さ。遺跡と東大寺は、平城京の東西のメインストリート「二条大路」で結ばれていたと想定されるという。
 ■遺徳継承のシンボル
 円形建物跡を囲う回廊や塀のすぐ南側では、昭和56年に奈良大学の発掘調査で寺院建物の基壇が出土している。その瓦を精査した近藤さんは著書『行基と知識集団の考古学』(平成26年)で、《東大寺廬舎那仏(大仏)の完成をみずに遷化した行基の菩提を弔うため、二条大路の延長線上で東大寺を見渡せる丘陵上を選地し、弟子達が建立した》と推察した。近藤さんは「今回の発見でその光景は鮮明になった」と話す。
 喜光寺の小林澤應副住職によると、行基は福田思想の実践者だった。福田思想とは、神仏を敬う心の敬田、先祖への報恩感謝の心の恩田、慈悲の心の悲田|の三福田を心に耕し功徳を得る仏教の教えで、民衆による社会事業参画の基本となった考えという。
 小林副住職は「行基菩薩は他人を救済する利他行を実践しながら、村から村へと説法をして歩かれた。菅原遺跡の円形建物跡はその遺徳を継承し、後世に伝えるシンボルであったかもしれない」と語る。

奈良時代の類例のない円形建物跡がみつかった菅原遺跡。東大寺大仏殿が望める丘陵地にある=奈良市

求人情報求人情報
購読・試読のお申込み購読・試読のお申込み
お問い合わせお問い合わせ

産経新聞各紙
産経新聞産経新聞
サンスポサンスポ
Business iBusiness i
夕刊フジ夕刊フジ

グループ各紙
月刊TVnavi月刊TVnavi
MOSTLYMOSTLY
正論正論
週刊ギャロップ週刊ギャロップ

産経でんき産経でんき


読もうよ新聞読もうよ新聞

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。