100年間の論争に決着 東大寺東塔の高さは70㍍だった 奈文研が発表
七重の威容を誇りながら焼失した東大寺(奈良市)の東塔について、奈良文化財研究所(奈文研)は25日、奈良時代の創建時の高さが約70㍍だったとする復元案を発表した。東塔を巡っては明治時代から約1世紀にわたる高さの論争があり、約70㍍説と約100㍍説に分かれて議論されてきたが、奈文研はこの論争に「決着を見た」としている。
ただ約70㍍であっても奈良時代の木造塔としては奈良市の薬師寺東塔(約34㍍)を上回り、国内随一だったとみられる。
東大寺では奈良時代、大仏殿の南東に東塔、南西に西塔がそれぞれ創建され、東塔は治承4(1180)年の平氏による南都焼き打ちで焼失した。鎌倉時代に再建されたが、落雷で再び焼け、現在は基壇跡だけとなっている。明治以降は塔について建築史家の天沼俊一の説など複数の復元案が作成されたが、根拠となる遺構の詳細な調査は行っておらず、それらの復元案が構造上、建物として成立するかどうかは不明だった。
奈文研は東大寺の委託を受けて平成30年から東塔について調査・研究を本格化。最大の謎が塔の高さだった。頂部の装飾物である「相輪」を含む高さは、文献によって約23丈(約70㍍)と約33丈(約100㍍)の2通りが伝わっていた。
今回、奈文研が33丈の根拠とされた文献「朝野群載」の写本を調べ、江戸時代の国学者、伴信友が23丈と記されていた箇所を33丈に書き直していたことを突き止めた。新たに判明したこの事実が高さ23丈の有力な根拠となった。
復元案によると、相輪の高さは約26㍍で塔全体の3分の1超と大きい。さらに初重(1階部分)の高さは発掘調査や現存建物などから約8㍍に、幅は一辺約15㍍に復元。七重(7階部分)の高さは約5㍍に、相輪の規模などから幅は約8㍍とし、これまでに作成された細長い復元案とは異なり、安定感のある姿となった。
構造解析を行い、現存する興福寺五重塔(国宝)との比較から建物として成立し得ることも確認した。同研究所の担当者は「現存しない七重塔の復元を精緻な検討を重ねて実証的に行ったのはほぼ初めて。古代東アジアの木造塔を考える上で貴重な事例となる」と説明する。一方、東大寺では「史跡整備や伽藍復興を進める上で考慮すべき重要な研究成果」としている。
奈文研がまとめた東大寺東塔復元研究の報告書はインターネットで無料公開する。
大きな相輪支える七重の安定感
奈良文化財研究所による調査・研究によって、高さ約70㍍だったとみられることが分かった東大寺(奈良市)の東塔。示された復元案では初重(1階部分)の幅などが大きく安定感のある七重で頂部を飾る大きな相輪が際立つ。約1300年前、平城京の東側にそびえ建った木造塔の姿が浮かび上がった。
相輪は金属製の装飾物で、露盤や九輪、水煙などの部分からなる。奈良時代に建てられ現存する国宝・薬師寺東塔は笛を吹く天人が彫られた水煙で有名だ。
東大寺東塔の高さについては、平安時代までに成立し南都焼き打ちで失われたとされる「大仏殿碑文」の内容が後世の史料のもととなったと考えられている。今回の史料調査によってその記述が約70㍍とみられることが判明。ただ全体の高さが約70㍍でうち相輪は3分の1超を占めるとなると、相輪が大きくなることからこれまでは約㍍説を否定する見方もあった。
このため現存する塔や失われた塔を詳細に比較研究し、古代では相輪が大きく造られる傾向があったことを確認したという。
「東大寺東塔は大きな相輪を支えるために安定感のある姿になったのだろう」。そう説明するのは研究に取り組んだ奈良文化財研究所の目黒新悟研究員だ。ではなぜ相輪は大きくなったのか。
東大寺東塔は天平宝字8(764)年に相輪が上げられ、その頃に完成。相輪には聖武天皇が各国分寺の塔に安置することを命じた護国の経典である金光明最勝王経と仏舎利が納められたと伝えられている。目黒研究員はこのことに触れ、「東塔の相輪はそうした重要な部分であるために際立つものとし、思いを込めたのではないか」と推測した。
東大寺東塔の復元研究の成果は、他の古代木造塔についても考える手掛かりとなりそうだ。同研究所では6月29日に平城宮跡資料館講堂で、「東大寺東塔の復元研究」(仮題)をテーマにした公開講演会を予定している。