聖徳太子終焉の地は「上宮遺跡」 大教大講師が講演 法隆寺南東1・5㌔
斑鳩町教育委員会で長年発掘調査を行った平田政彦・大阪教育大非常勤講師が26日、法隆寺(同町)の夏季大学で講演し、同寺を創建した聖徳太子が死去した地について、同寺の南東約1・5㌔にある「上宮(かみや)遺跡」(同町)との見解を示した。日本書紀では同寺東側の「斑鳩宮」とされているが、発掘成果などをもとに検証した。

法隆寺夏季大学で行われた平田政彦さんの講演会=斑鳩町
聖徳太子について日本書紀は、推古天皇29(621)年に斑鳩宮で死去したと記述。しかし平田さんは奈良時代の文献史料などをもとに「飽波葦墻宮(あくなみあしかせきのみや)で622年に死去した」と指摘した。
平田さんはかつて、飽波葦墻宮伝承地とされる成福寺(じょうふくじ)近くの上宮遺跡を発掘。飛鳥時代の大型井戸や瓦、焼けた柱の痕跡などが見つかり、「飽波葦墻宮の可能性が高い」と述べた。
同宮については奈良時代の史料に「聖徳太子が療養し、推古天皇が田村皇子(のちの舒明(じょめい)天皇)を派遣した」と記載されていることから、平田さんは「聖徳太子はこの宮で亡くなり、斑鳩宮に運ばれたのではないか」とした。
一方、聖徳太子が創建した法隆寺については、平成16年に焼けた壁土や壁画の破片が発掘されたことから「火災に遭ったことは明らかで、落雷によって塔などが焼失したのだろう」と話した。


































