中大兄皇子と中臣鎌足が出会う前の遺構?謎の石列確認 飛鳥西方遺跡
乙巳(いっし)の変(645年)を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会った「槻(つき)の木の広場」跡とされる明日香村の飛鳥寺西方遺跡(7世紀)で、広場ができる前にあったとみられる石列(長さ約3メートル)が村教委の調査で見つかった。7世紀前半の遺構と想定され、広場以前の土地利用を考える貴重な資料になるという。
石列が見つかったのは飛鳥寺中心部から南西約120メートル付近で、広場(東西南北各約200メートル)の南端に近い場所。長さ約30センチクラスの石を2段積みで直線的に並べており、方位は東西方向が西端部分で北に22度ふれていた。
平成20年度から続く調査で確認された広場跡とされる石敷き遺構よりも下層にあり、広場ができる前の飛鳥時代前半の遺構と考えられる。石列と同じ方位の遺構はこれまで見つかっていないという。
日本書紀には、中大兄皇子と中臣鎌足が法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で行われた蹴鞠の際に出会ったと記す皇極3(644)年の記述など、槻の木の広場にかかわる記述が持統朝までたびたび登場。乙巳の変直後には天皇が群臣を集めて忠誠の盟約を行う舞台にもなっており、政治的に極めて重要な場所だったと考えられている。
村教委は「飛鳥寺西方遺跡でこれまでに出土した石組み溝などの方位はほぼ正方位で、これらと異なる石列は飛鳥時代でも古い様相を示し、広場以前の土地利用の一端を垣間見ることができる。水路の護岸の一部などの可能性があるが、はっきりした性格は不明だ」としている。
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