【鹿角抄】大和政権の馬牧場に思いを馳せる
なだらかな地形が広がる御所市南部の葛城山麓。古代には大豪族・葛城氏の拠点となった地域だが、そこにある南郷大東遺跡で古墳時代(5世紀)の馬の骨が大量に見つかり、幼い馬の骨もあったことから、馬の飼育を行う大和政権の牧場「牧」があった可能性が明らかになった。
古代社会で馬は交通手段とともに、軍馬として王権を強化する重要な役割を持っていた。もともと日本列島には馬はいなかったとされ、魏志倭人伝には「牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし」と記されている。そうした中、馬の飼育と乗馬の風習は渡来人によってもたらされた。卑弥呼の墓の説がある箸墓古墳(桜井市)からは最古とされる馬具の木製鐙(4世紀初め)が出土、大王らが馬に乗っていたことが想像される。
だが、馬が本格的に飼育されるようになるのは5世紀ごろからという。牧があったとみられる生駒山西麓の蔀屋北遺跡(5~6世紀、大阪府四條畷市)では馬の全身骨格や鞍、鐙、轡などの馬具、朝鮮半島との繋がりを示す韓式系土器が見つかっている。
日本書紀応神15年の条には、「百済王から良馬2頭が贈られた」と記され、特に百済からの渡来人が馬の飼育や乗馬の風習を日本に伝えたとみられる。
馬の飼育を行う大和政権の牧は、大阪府以外に長野県や群馬県などにもあったとされる。南郷大東遺跡で見つかった馬の歯に含まれるストロンチウム(鉱物や水などにわずかに含まれる元素)の同位体比の分析から、生後5年までに関東地方から連れて来られた馬がいたことがわかった。良馬をつくるために、牧の間で交流があったことが想像される。
南郷大東遺跡では導水施設が見つかり、祭祀に関連する遺跡と考えられているが、馬の飼育のためには水が必要であり、飼育に関連する施設の可能性もある。
葛城山麓のなだらかな斜面を見ていると、大陸から輸入された馬やその子孫の馬たちが元気に走り回る姿が目に浮かぶようだ。(野﨑貴宮)
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