【まちの近代化遺産・再録】三光丸 日本人の胃腸守り続け700年
顧客の家を訪問して医薬品の入った箱を置き、次の訪問時には使った分だけ精算する配置薬(置き薬)。県内の配置薬業も江戸時代には全国に販売網を広げ、各地で富山と競合した。原料は昔ながらの薬草だが、製造方法は時代とともに機械化が進んでいった。御所市今住の製薬会社「三光丸(さんこうがん)」には、大正期に使われていた作業場が、今も残っている。
三光丸は直径約4ミリの丸薬。胃もたれや消化不良、胸焼け、吐き気などに効能があるとされる。センブリなど、自然界にある薬草だけで作られている。
14世紀に紫微垣(しびえん)丸という名前で製造していたとされ、後醍醐天皇から「三光丸」と命名されたとの伝承が残る。製造に携わっていたのは、大和盆地南部を拠点にした武士・越智氏の一族。現在も三光丸の社長を代々務める「米田氏」の先祖だ。
当時、米田氏は越智陣営の中で寺社との交渉や薬作りなど、〝頭脳派〟として活躍していたとみられる。三光丸クスリ資料館の浅見潤館長は、「興福寺から製造方法を学んだ可能性もある」と指摘する。
越智氏は戦国時代末期、筒井氏に敗れて没落するが、米田氏は帰農して現在の御所市に定着した。社内には、製造方法を記した「秘伝書」も残されている。
江戸時代に入ると、大和国で配置薬が始まる。幕末までには、販売網は全国に広がっていった。浅見館長は「各地で富山の配置薬業者と競合し、互いに中傷合戦を繰り広げるなど、収拾がつかない状態になった」と話す。紛争を収めるため、米田氏は富山の業者と大和の業者を集めて慶應2(1866)年、紳士協定を取り交わして共存の道を歩むことになった。
こうして現在まで続く三光丸だが、江戸時代まで手作りだった製造方法も、明治から大正にかけて機械の導入が進む。現在、「こころの館」として資料館の一部となっている建物は、大正から昭和まで作業場として使われていた施設で、ここで製造や袋詰めが行われていた。
浅見館長は「袋詰めなどは、近隣の家から『丁稚(でっち)奉公』で来た子供たちも担当していた」と明かす。子供たちは昼間は仕事をしてその対価を受け取れるうえ、夕方には学校から教師を招いて勉強も教えてもらえたため、この丁稚奉公は非常に好評だったという。
資料館には、作業場の古写真も残されている。和風木造建築の作業場の中に機械が据え付けられ、従業員や袋詰めする子供たちが写されている。
現在残る大正の建物と当時の写真を合わせてみると、長い歴史を刻んでいる地に立っていることを実感できる。(平成26年10月8日掲載)
三光丸のホームページはhttp://www.sankogan.co.jp/
※平成26年9月に奈良版でスタートした「まちの近代化遺産」を再録します。文中の年齢や肩書き等は掲載時のままです。
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