なぜ、想定外の巨大な塔が再建された? 東大寺の僧・重源の悲願とは?
鎌倉時代に、奈良時代の創建時より一回り拡張して再建されたことが分かった東大寺(奈良市)の東塔。研究者からは「想定外だ」と驚きの声が上がった。「天平回帰」と、創建時の姿で再建するのが常識だった奈良で行われていた大規模な工事の様子をほうふつさせる塔の姿からは、大勧進職として復興の指揮をとった僧、重源らの東塔再建への悲願がうかがえる。
東大寺は治承4(1180)年、平重衡の南都焼き打ちで伽藍の大半を焼失。その後、復興に乗り出したのが中国・宋に渡った経験があるとされる重源だった。すでに61歳と高齢だったが、勧進(寄付を募ること)に精力的に奔走。大仏、大仏殿、南大門などの復興を果たし元久元(1204)年、最後に着手したのが東塔だった。
今回の調査で見つかった基壇は、創建時よりも約3メートル拡大。柱の配置は3間四方で、柱間寸法は再建された南大門と一致する。調査団長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は「奈良の寺は興福寺などのように『天平回帰』で同じ規模、構造で再建するのが常識だが、ここではひっくり返っており、奈良では珍しい。思い切って宋の様式を取り入れたのではないか」と指摘した。
重源は勧進状に、「東塔が完成したら千人の童(男子)を集め、千部の法華経を転読させたい」といった願いも記している。西山厚・帝塚山大学教授(仏教史)は「重源の最後の願いは、大仏と東塔の前でたくさんの子供たちにお経を読んでもらうことだった。東塔がいかに重要なものだったかがよく分かる」とする。
しかし、重源は間もなく死去。東塔再建は栄西、行勇という大勧進職に引き継がれて嘉禄3(1227)年に完成したとみられるが、康安2(1362)年に落雷で再び焼けた。長い時間を経て再び現れた巨大な塔の遺構に、菱田哲郎・京都府立大学教授(歴史考古学)は「残りがよく、今後の調査が期待される。鎌倉時代の復興の力強さが感じられる」と話した。
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