【鹿角抄】ある考古学者の若き日に思い馳せる 聖徳太子一族?の墓調査
元橿原考古学研究所副所長の泉森皎さん(74)は県教委文化財保存課に勤務していた昭和40年8月7日朝、斑鳩町の教育長から「龍田神社北の宅地造成地で古墳が見つかった。すぐ来てほしい」という連絡を受けた。発掘調査黎明期の当時、橿考研を含む県教委に技師は2人しかおらず、泉森さんは入庁2年目。調査用具を整えて、急いで現場に向かった。
現場に着くとシャツ1枚の教育長が駆け寄ってきて、「えらいことです。人骨が見えています」。造成でできた崖状の部分から横口式石槨が露出、その中には黒漆塗りの陶棺があり、棺内の人骨も見えていた。
ところが陶棺を調べようとすると、宅地造成会社の社長が、「棺の蓋を開けずに持ち帰ってほしい」と頼んできた。暑さで漆はめくれあがっており、結局、そのまま橿原市の大和歴史館(現橿考研付属博物館)まで運んだ。石槨もその後、移された。
今なら現場が保存され、現場で調査が行われるはずだが、当時はそうもいかなかった。この古墳は有名な竜田御坊山3号墳。長く県内の発掘調査に携わり、「大和の古墳」をよく知る泉森さんにとって、思い出深い古墳のひとつだ。
見つかった骨は、10代半ばごろの人物のもの。副葬品は特異で、琥珀製枕や蓋付きの三彩円面硯、筆の一部とみられるガラス管など。硯は隋~初唐の形式で、ガラス管は王羲之の「筆経」にある筆管(瑠璃管)と考えられ、いずれも遣唐使が中国から持ち帰った可能性があるという。
石槨はこれまで、博物館の中庭に半世紀にわたり置かれていた。しかし、館内展示が決まり、2月にクリーニング。26日~4月17日に、陶棺や副葬品と一緒に公開される。
古墳の発見現場は法隆寺に近く、被葬者について泉森さんは、蘇我氏により滅ぼされる前の斑鳩宮にいた聖徳太子一族で、聖徳太子の孫クラスの人物の可能性もあると考えている。公開初日の26日には泉森さんが講演予定。当時のエピソードを含め、歴史ロマンを感じられる楽しい話が聞けそうだ。(野崎貴宮)
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