吉野離宮の謎に迫る 吉野町の宮滝遺跡、本格調査と公園化
持統天皇や聖武天皇など飛鳥、奈良時代に歴代天皇が度々行幸した離宮「吉野宮」「吉野離宮」跡と考えられている吉野町にある国の史跡「宮滝遺跡」で、保存と活用のため公園化する整備事業が始まった。今年1月~3月に行われた試掘調査では、奈良時代の離宮施設の西端や南端を区切る可能性がある石組み溝跡が見つかっており、今年度に予定される本格的な発掘調査への期待も高まっている。(山本岳夫)
■試掘調査で重要な成果
今回の試掘調査は史跡指定地内10カ所の計約290平方メートルで実施。奈良時代の吉野離宮の西南隅近くと推定される調査区では30センチ大の石が南北に3つ並び、南端部分と推定される調査区では、20~30センチ大の石が30~40センチ幅に並んでいるのが長さ約2メートル分見つかった。
町教委は、石列は石組み溝の底部分で、奈良時代の離宮施設の西端と南端を区切る石組み溝の底石の可能性があるとみている。また、飛鳥時代の直径3・5メートル以上の大きな穴「土坑」も発見。中から瓦片などが出土した。
調査を担当した同町教委の中東洋行主事は「宮滝遺跡の飛鳥時代、奈良時代の遺構の広がりを考える上で重要な成果が得られた」としている。
■宮滝遺跡は「吉野宮」「吉野離宮」跡
宮滝遺跡は、日本書紀や続日本紀などに記されている飛鳥時代の「吉野宮」、奈良時代の「吉野離宮」の施設跡とされている。
記述によると、吉野宮は斉明2(656)年に造営され、大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の際に吉野宮に籠って挙兵。天武即位後も行幸し、その皇后だった持統天皇は在位時と退位後合わせて34回も行幸した。その後も文武、元正、聖武天皇が「吉野離宮」「芳野(吉野)宮」に行幸している。
吉野宮、吉野離宮があった場所については吉野町宮滝以外にも説があるが、昭和5年~13年の宮滝遺跡第1次調査で奈良時代の瓦や石敷き遺構などを発見。50年の第2次以来の調査でさらに、飛鳥時代は大きな人工池と関連施設があり、「全体が巨大な『庭園』として機能していた」と推定されるようになった。
奈良時代には一辺120~150メートルの方形の区画内に掘っ立て柱建物などが設けられていたことも判明。宮滝遺跡が吉野宮、吉野離宮の跡と考えられるようになった。
■公園化に向けて今年度に本格調査
町では宮滝遺跡を保存・活用する事業を本格的にスタート。すでに「吉野万葉整備活用計画基本構想」を策定しており、「周辺の歴史的文化的遺産や良好な自然環境を一体的に保全するとともに、吉野の歴史的文化的遺産を蘇らせる拠点として、宮滝遺跡の保存整備」を行うとしている。
奈良時代の吉野離宮の大型建物跡などが見つかっている南西部区域では、遺構を活用して大型建物の柱列の復元や石敷きなどをわかるように表示する方針。吉野離宮の柱列などが見つかった北部区域では柱列を表示し、発掘調査がほとんど行われていない南東部区域については、調査を行ったうえで整備計画を策定するとしている。
町教委は今年度中に本格的な発掘調査を予定しており、中東主事は「試掘調査で得られたデータを元に、本格的な発掘調査を行い、さらなる成果を得られれば」としている。
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