【鹿角抄】近代宗祐寺の中興の祖・得善上人が残した大きな宝物
宇陀市の古刹・宗祐寺が寺の歴史を紹介する「宗祐寺史」を刊行した。46機関・寺院が協力、研究者ら計約70人が刊行にかかわり、約10年がかりで完成した858ページの大著だ。
刊行に伴う宝物調査では、明治時代の廃仏毀釈によって流出したとみられる他寺院の仏具などを収集していたことがわかった。それを行ったのは、廃仏毀釈による奈良仏教の疲弊を嘆いた当時の住職で、その後融通念佛宗総本山大念佛寺第56世法主(同宗管長)となる得善上人だった。
得善上人は近代宗祐寺の中興の祖。天保6(1835)年に河内国茨田郡今津村(現大阪市鶴見区付近)生まれで、明治18~30年に宗祐寺住職を務めた。就任の翌年、得善上人は檀家2人から「金四拾円」を借用。現在の価値で数十万円ともみられるが、この金は廃仏毀釈で流出した仏具などの購入費にあてられたとみられる。
なぜなら、当時、宗祐寺が県に提出した宝物類の報告書には、得善上人が寄贈した多くの寺宝が記録され、その中には今回注目された興福寺古物の「黒漆塗り磬架」も含まれているからだ。
さらに得善上人の大きな功績は、江戸時代末期に幕府の金属供出令によって失われたとされる梵鐘の鋳造。地元の人たちの寄進を受け、親交があったとされる有栖川宮らの協力で明治24年に完成させている。
得善上人は多くの日記を残し、それによって全国宝物調査の一環で岡倉天心やフェノロサらが同寺を訪れていたこともわかった。これまで、近くの長谷寺や室生寺を訪問したことは知られていたが、それほど有名ではない宗祐寺にまでフェノロサらが足をのばしていたことは研究者にとって驚きだった。この調査の結果、宗祐寺の多聞天立像などは当時の国宝になっている。
こうした得善上人の行動などを含め寺の詳しい歴史や宝物、建築などについてつづった宗祐寺史は、県立図書情報館(奈良市)にも所蔵され、館内で閲覧することができる。また、見つかった宝物類は今のところ一般公開の予定はないが、新たに文化財に指定される可能性もあり、中尾良彦住職は「文化財になれば一般公開することを検討したい」と話している。(野崎貴宮)
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